5月28日、クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金の行方が番組の途中で、北朝鮮のミサイル発射のJアラートよってニュースに切り替わったことで、結果がどうなったのか?5chで話題になっている。






天草四郎時貞の埋蔵金の噂は、天草四郎と関係が深い人物、豊臣秀頼「伝豊臣秀頼墓」に関係する。豊臣秀頼の子が天草四郎との一説もあり、いつの間にか埋蔵金が存在するという都市伝説が残っている。





今回は、クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金どうなったのか、5ch情報をまとめてみた。


■目次

クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金とは
天草四郎の埋蔵金の都市伝説
クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金どうなったのか?

クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金とは






記事内容


天草埋蔵金伝説は、財宝研究の先駆者で作家の畠山清行氏(1906~91)の著書「日本の埋蔵金」に登場する。


この本によると、一揆軍が原城(現在の長崎県南島原市)に籠城した際、軍資金の一部を天草下島に隠すことになり、小西行長の遺臣の1人が守り役となった。彼は島で軍資金を守っていたが、一揆の鎮圧後、「柱岳の麓の三角池」に隠して江戸に逃げたとされる。  



それから約190年後の1847(弘化4)年、江戸・日本橋の薬屋の蔵から遺臣の日記や地図が発見された。地図を頼りに多くの人が天草を訪れたが、肝心の三角池が見つからないまま時が流れた。  


1935年、老岳(現在の天草市有明町)の麓で、長さ5センチの十字架が見つかる。金メッキの下には「さんしゃる二 こんたろす五 くさぐさのでうすのたからしづめしづむる」という謎の言葉。「さんしゃる」は三角(さんかく)池を指すのでは-。伝説が信じられるようになった。  


西日本新聞




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天草四郎の埋蔵金の都市伝説









天草四郎は、豊臣秀頼の御落胤で名前を「豊臣秀綱」という説が残っている。



天草四郎には諸説あり、島原・天草の乱の際に一揆の首謀者達が、民心を繋ぎ豊臣残党を集めようと、天草四郎のことを秀頼の落胤で本名は豊臣秀綱であると言いふらしたプロパガンダの一種ではないか?と言われているが、本当に豊臣秀頼の御落胤だった可能性は否定できない。




島原の乱で原城にたてこもったのは農民がほとんどで、徳川家光は九州の諸大名など12万人を超す軍勢を送り出した。これは、関ヶ原の合戦の7万5000人よりも多い。



しかも、農民たちのほぼ全員がこの乱で亡くなっている。



本来、非戦闘員である農民の反乱に対して、前代未聞の大量の軍勢を派遣して、女性や子どもであっても容赦なく武力行使したのは「どんなことがあってもこの戦乱は平定し、残党の存在も許さない」という強い意志があった、一方で「キリシタン弾圧」は表向きの理由で、背後にはもっと深刻な理由があったのではないか?という説がある。



その理由が「天草四郎が秀頼の落胤」説。
または豊臣とゆかりの者であれば、「天草の乱=豊臣の反乱」ということになる。



であるならば、徳川家が必死になって反乱軍を皆〇しにしようとしたのも納得できるし、天草四郎が豊臣秀頼の息子だったかどうかはわからないが、少なくとも豊臣の関係者であった可能性はある。





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クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金どうなったのか?









結論から言うと、クレイジージャーニーで放送された天草四郎の埋蔵金どうなったか、結果が放送されない限りわからない。



しかし、天草四郎の埋蔵金の一部が発見された場合、ニュースなどのメディアで報じられるはずなので、結果は見つかっていないと思われる。




しかし、天草四郎の埋蔵金が存在しないとは言い切れない。



その理由は、2021年に山梨県の洞窟で金を発見した人がいた。
領地の甲斐の国(現在の山梨県)に産出する金だったので、武田軍の財政を支えた埋蔵金と思われ、洞窟に金が積んであったそうだ。見つけた人は遭難した途中に発見したそうなので、次に行った時は洞窟を発見できなかったという。



武田信玄の埋蔵金は、黒川金山をはじめとする金山衆の上納前の砂金であり、当時でも強制労働ではなく、金鉱山は産業だった。今の企業の事業税のようなものと用心棒代での上納で労働は正月休みがあったり、休暇もあったと記録されている。




その鉱山経営に必要な資金も含めて、未上納があると伝わっている。

昭和の後期に発掘調査をして隠し金の存在は否定されているが、黒川のほかに大菩薩峠や秩父方面では、この「隠し金を見た」という埋蔵金伝説が残されている。



実際に山に入るとあちこちで鉱山跡を見かけるので、そこに隠されていた可能性は否定できない。



武田信玄は、「棒道」と呼ばれる直線の軍用道路を作っていた。
上中下それぞれの行き先が違う棒道があり、この棒道を使って行軍する兵士の食糧の調達をした。兵士たちと一緒に持ち歩くのではなく、あらかじめ棒道にある砦や陣屋に金(軍資金)を置いておいて、行軍となれば食料の調達に使ったとされている。武田家の滅亡が早かったため、一部が現在も残っているのではないか?と伝わっている。



天草四郎の埋蔵金も可能性が高いのは、豊臣家による未上納分。
実際に天草四郎に関係するものが見つけたというは残っているのだから、埋蔵金が存在しないとは言い切れない。















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