今田勇子 意味や由来 (6)


3月28日放送、日本テレビ系「仰天ニュース」





日本中を震撼させた幼女連続誘拐殺人犯の宮崎勉について特集。
宮崎勤は自身の書いた犯行声明文ともとれる手紙に書いた差出人の偽名で今田勇子という名前を使った。




宮崎勤が起こした犯行はどこか現実感がなく、夢やゲームの中にいるような感覚。

極度の離人状態にあり、当事者意識が抜け落ちた心理状態だから危機感を持てず、自己愛や自己顕示欲の湧き出すままに、行動できてしまったのか?




いずれにしても、いびつで生きにくい人格や精神構造をしていた。



今回は、宮崎勤がなぜ今田勇子の名前を使ったのか?5ch情報をまとめてみた。




■目次

宮崎勤の埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは
今田勇子の由来や意味
宮崎勤の最後の言葉

宮崎勤の埼玉連続幼女誘拐殺人事件とは



今田勇子 意味や由来 (5)


1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女誘拐事件。



4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取ったことから、欧米を中心に多発する児童誘拐事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。




特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自○したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。



1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が八王子市にて別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、八王子警察署に現行犯逮捕された。


参照wiki




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今田勇子の由来や意味



今田勇子 意味や由来 (4)




宮崎勤は1989年2月6日、第一の事件の被害者宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱を置いた。



その箱には「今田勇子」という名前を使用し、第一の事件に関する第一の書簡「犯行声明」を朝日新聞東京本社に郵送し、同じ内容の犯行声明が第一の被害者宅にも送っている。




なぜ、宮崎勤は今田勇子という偽名を使ったのか?



宮崎勤は犯行を認めていないが、文書を通じてのインタビューした「夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白」を見る限り、第三者からは警察を挑発する形に見えたが、実は自分が捕まりたくない為の偽装工作をしたかったのかもしれない。



書籍にある宮崎勤の証言を信じるならば、祖父の死が犯行の引き金になったことに疑念の余地はない。



また、祖父が宮崎勤にとって人生の大きな転機であったことについても、その理由を家庭環境に求めざるを得ない。更に、死刑執行も含め「未来のことに関心がない」という宮崎勤の発言は、換言すれば「自分が存在しない」ということ。



実際は、自分の興味を満たす為に人を〇している訳だから、当然その報いを受ける事は理解していたはず。しかし捕まりたくはない。



書籍に事件前「ある女性との手紙のやり取り」があったそうだが、この女性が今田勇子の由来になっているのかもしれない。


だからこそ色々な捜査が及ぶ中で、等身大の自分に近いプロファイリングを警察にさせない為に、マスコミを利用する形で錯乱させたかったので、性別が違う女性の名前を使用したというのがそもそもの始まり。




犯罪を犯しながらも捕まりたくないという心理は、世間に対して挑戦的な、自分が作り出した架空の人物の犯行にしてしまう犯罪心理が働いたと考えられる。



なので、宮崎勤は、自身と性別も違う今田勇子という架空の人物を作りあげ、子供を亡くした女性であるかの様な手紙を送り付けた。



昼間に少女を連れ去る事が出来るのは、働いている男性では中々難しい。
働いていない宮崎勤の所に聞き込みに来る可能性があるので、何がなんでも女性の犯行である印象を持たせたい。




なので、過去に文通相手だった女性を「今田勇子」という人物として作り上げ、警察とのゲームを楽しむ目的ではなく、余裕なんて本当は一切なかった状況で、自身との別人格を作り上げたかったと考えられる。





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宮崎勤の最後の言葉



今田勇子 意味や由来 (3)


「夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白」を管理人も読んだことがあるが、この書籍の中では、宮崎勤は最後まで反省や謝罪の言葉はなく、自分の犯した罪の意味を分からず、死刑執行を受けたようだ。




宮崎勤の最後の言葉は「私は世間に勘違いされた。本当は、優しい人間だと伝えてほしい」と記者や知人あてに合計で2,000通近くの手紙を拘置所内から送っている。



宮崎勤は死刑は逃れられない、死刑執行はやむを得ないと覚悟はできていたのだろう。



日本は死刑確定から執行まで、多くが数年から十数年もの間、平均では7年6か月を要するのに、宮崎勉の死刑執行は2年弱という異例の速さで行われている。




賛否があるが、法治国家だから判決が確定した以上、遅い早いの問題ではない。



ただ問題点は、冤罪の可能性があったということ。
宮崎勤が逮捕されたきっかけは、新たな幼女を物色しターゲットを決めた矢先に、その親に取り押さえられたこと。家宅捜査すると、被害者の写真も出て来ているし、状況証拠は完璧。




宮崎勤が真犯人であることは第三者からすると、疑いようが状況ではあるが、現実問題として物的証拠が見つかっていない。



宮崎勤の部屋と他の家族部屋とは、カ―テンやベニヤ板で簡単に仕切られているだけにもかかわらず、腐敗が進んだ遺体が部屋あったこと、その部屋で犯行に及んだことをそれまで家族が誰も気付いていなかったのがおかしい。 また、隣の部屋にいた妹は「腐敗臭などしなかった」と証言している。



宮崎勤裁判で使われた供述調書によれば、犯行に使われた宮崎勤の車は日産車。
しかし、事件前に犯人らしき男が山でエンストを起こしたのを助けた人の証言によると、「車はトヨタの車だった」と言っている(宮崎勤の車は日産ラングレー)




これは、車関係に関わる人たちが助けてあげてるので、車種を間違える訳はない。



また部屋から押収されたノコギリから、被害者の血液反応が出なかった。宮崎勤は犯行に使用したノコギリを河川敷に捨てたと供述したが、200人以上で捜索したのにそのノコギリは現在も見つかっていない。




そして、宮崎勤は日々の報道をチェックしながら、その報道をみて犯行声明文を書き、「今田勇子」と偽名を使い、筆跡も細工をした上でポストに投函している。


その手紙と宮崎勤の筆跡が一致したという証拠もない。

封書、手紙に指紋が「封書についていた指紋が一致した」とか、「切手についていた唾液のDNAが一致した」とか、手紙を書いたのが宮崎勤という証拠は出ていない。




状況証拠と宮崎勤の自白のみ。
これらの謎が残ってさらに精神鑑定を行っている途中で、当時の鳩山法務大臣は犯行動機が未解明のまま、宮崎勤の死刑執行を行っている。


もちろん、犯行は卑劣であり、被害者の立場になってみれば犯人を許せないが、なぜ謎を残したまま、宮崎勤の警察での取り調べの自白のみだけで、死刑執行を急いだのか?謎ばかりが残っている事件なので、ネットでは冤罪説が出回っているのだろう。






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